先日、拙の息子の誕生日プレゼントという事で、「東京ドーム」に野球観戦に行って参りました。球場で同僚から頂戴した招待券を引き換えるため、会社を早退して息子と現地に出向いたのですが、試合開始まで2時間以上もあったので、野球博物館に連れて行きました。すでに”天に召された方”も含め、往年の選手の名前を次々と口にする息子の情報量に少々驚きながら、当時使用していた道具や掲載されている記録を一緒に観て廻りました。
その時、ふと思った事があります。
当時の往年選手達は、一体どんな事をしてあれだけの記録(記憶)に残るプレーヤーになれたのか?
我々大人が野球に初めて夢中になった、今から30年、40年前の野球選手ですら、150kmのボールを投げる選手や、ホームランを年間50本打つ打者は実在していました。なんだか、「持って産まれた天性だ、センスだ!」という言葉だけで簡単に片づけてしまっていいのか?という事に、疑問を抱いた訳です。スポーツ界では、科学的トレーニング法だの、練習道具、練習方法が進化していて、それを選別する能力も試されているのではと思う程の情報が、あちらこちらで考案されています。自分の身体を客観的に観てくれる「個人トレーナー」と契約するいうプロ選手もかなり増えました。現在と比較すると、昔の選手は”今あるものをどうすれば最大限に、効果的に出来るのか?”を考えざるを得ない状況だったのではと想像します。
最近では、情報が溢れ過ぎて自分達が考えなければいけない事を、インターネットをはじめとするこの世の中が省略して便利にし過ぎてしまい、実際に何をすればいいのか判らなくしてしまっているのではないか、と思う訳です。野球選手に限らず、近年「考える」ということがとてもクローズアップされていますが、グランド練習でも「考えてやってごらん」というコーチからのアドバイスもよく聞かれます。では、どう考えればいいのか? そこが、選手にとっての悩みというか、大人の期待とのギャップなのかと感じました。傍らでその光景を観ていると、ある事に気が付きます。
今の子供達は、明らかに「考える」という事の経験が不足しているなと…
それじゃ、どうするか。えへへっ、ちょとした実験をしてみるか…
偶然にも、雨で練習が中止となったこの日、実際に息子に挑戦してもらいました。お題は、バットで上達のための練習法、トレーニング法を書き出すというもの。数は、息子の年齢と同じく10個! 手助けになる様なヒントは与えません。この際、どんなささいなことでもOKとします。たとえ、”これ、どーなよの?”っていう内容があったとしても、絶対に批評したり笑ったりしない事を約束した上、とにかく野球に役立つアイデアを絞りだす事に主眼を置かせます。すると、5分もしない内に頭を抱え始め、「あと、2個が思いつかない、もうダメだぁ〜」と言いながら、本当に頭の後ろから湯気が出てきそうな状況に陥ってました(笑) 書き始めてから20分後、ようやく10個を書き上げました。カンジンの内容については、彼の名誉のためここでの披露は控えますが、「よく頑張った」とやり遂げた事を褒めてやりました。そもそも、「考える」ことがどういう事なのか。またその後になって自分の中で何か変化を感じるか、この訓練を通じてどこかで役立てて欲しいなと。
目標とする動きを「イメージする」、その動きを習得するために「工夫する」というのは、「考える」事をする延長上に付いて廻る行為なのかなと思う次第です。
まぁ、拙の独り言なんですけどね…